白旗塚

小手指ケ原にある塚です。元弘三年五月、新田義貞が上毛国(群馬県)で北条氏を倒すために立ち上がり、小手指ヶ原の塚で源氏の白旗をたてたので白旗塚と呼んだと言われます。高さ6メートル、頂は20坪あります。
慶応三年に村民が富士仙元の石祠を建立し富士塚と称しました。
この塚がどうして作られたかについては、焼畑の際の野火を監視するためとも、陣地だったとも言われます。

小手指ヶ原の戦いのようすはどうだったのでしょうか。
この戦いの結果、世の中はどんな変化をしたのでしょうか。

北野天神

北野天神は延喜式内の物部神社で、後北野天神・小手指明神を合わせ祀る神社でといわれ、また、延喜式内の国渭地祇社(くにいちぎ)、出雲祝神社をも合わせ祀るといいます。その他いわれはいくつかありますが、調べてみるとおもしろいでしょう。

小手指ケ原古戦場

小手指ケ原は1333年(元弘三年)5月、新田義貞の鎌倉攻めの時、桜田貞国を大将とする鎌倉方と戦った古戦場として知られています。
 この他、1335年(建武二年)北条高時の子時行が、足利方の大将今川範満と戦いました。また、南北朝の争いが行われていた1352年2月に義貞の子義興・義宗と足利尊氏の軍が戦っています。
 小手指ケ原は上州(群馬県)から鎌倉に入ろうとする軍隊が通る鎌倉街道が通過していたのです。

新田義貞って?
1301~38年、鎌倉時代末から南北朝時代に活躍した武将です。
上野の国(今の群馬県)新田荘を本拠地とした豪族です。
1333年、北条氏打倒の兵をあげ、鎌倉に攻め入って北条高時などを滅ぼしました。
やがて足利尊氏と対立し、各地で戦いました。1338年に合戦中戦死しました。